毎日の遺書

やがて伝説へ

2024/7/8

 今日は発表の授業で友達が発表する番だった。そいつは全然真面目に勉強とかしないやつで今日になってさえ作品を読んでないろくでもないやつだった。俺は前回大失敗したので正直そいつにも失敗してほしかった。

 だが、現実は甘くなかった。彼のパートナーが優秀すぎたのだ。先行研究の使い方から考察まで先生もツッコミどころがないと褒めていた。

 

 俺は悲しくなった。色んな部分にだ。

 

 まず、真面目にやってない奴が平然と発表を終えた所だ。質問に一切答えてないのにいい発表になってた。先生目線ではこいつやってないんだなって分かるんだろうが、それでも単位は貰えるんだから結局変わらない。

 

 次にペアだ。彼女は1人で原稿を書き上げて質問にも臆することなく愛想まで出して発表してた。俺はどうだ?全く動かない指定校と本番に泣き出すやつだ。完全に人が悪い。その部分で美味しい思いをしてるあいつに怒りというか憧れというかあいつとの対比でここまで不運な自分に嫌気がさしている。

 極めつけは俺自身だ。だいたい近代文学が読んでてそこまで面白いと思えない。それに他の課題もあるし、なんなら自分でも話を書いている。そんな中で、この大事な発表に時間をつぎ込む気にならなかった。だから本文読んでも何も思わないし、先行研究の取り上げ方も楽な方に逃げてこっぴどく叱られた。

 一応考察もそれなりに考えたさ。でも見当違いだと言われたし、他のメンバーに頼んだけど結局やらなかった。なんで俺はこんな損をしなきゃいけないんだ。もっと真面目にやれば俺もあれぐらいできたのだろうか?俺の努力不足なのか。

 いや、結局俺一人でやっていればあの考察には行き着くだろうからこれは俺の思考プロセスの問題だ。例年どんな発表になっているのかは知らんが、普通のやつが考えられるような部分が見つからない。いやもっと読めば見つかったのかもしれない。でも、少し怖いんだ。もし本気にやったとしても結局その程度の考察も思い浮かばないんだっていう無能の烙印を押されたくないんだ。だから、身を粉にして取り組むことも出来ないし、他の人と同じやり方をするのが出来なくなる。

 

 これは他の様々なことに共通する。勉強、部活、趣味…。他と同じようにすると一般的な価値観の中に組み込まれ相対性が発生。そして必ず自分より上の存在が現れ、それに対して劣った自分というのが明らかになる。

 

 それが怖いんだ。自分は1番でありたい。自分には他の人には無いものがあるんだ。社会の中で自分の立ち位置を明確にし、優越感に浸り承認欲求を満たしたい。だから他と違うやり方を徹底して探し、実践することで失敗しても同じやり方をしたやつが居ないから上も下もないし、成功すれば新たな道を開拓したとして賞賛を浴びることができる。だから俺は王道やテンプレが好かない。

 しかし、そんなことばかりしていれば成功よりも失敗することの方が圧倒的に多い。だから王道を行って成功をしてるやつを見ると自分に対しての劣等感ではち切れそうになる。もっと自分のやり方でなんでも出来るくらい天才肌であって欲しかった。それなのに現実では俺は努力しないと報われないタイプで近道なんて一切許されない。そういうふうにデザインされているんだ。

 

 そうさ。一度自分のやり方というものを捨てなければいけないだが、そうすると今の自分からしか湧き出てこないアイデアというのが出てこなくなる。それはダメだよなって無意識の内にブレーキがかかっていく。

 

 そして、結局何も出来ない自分ができあがる。そんなの耐えられない。

 

 腹が立つ。とりあえず今はバカ食いして忘れようと思う。

 

 では、お先に。